長谷川勝敏さんが5月31日に死去 訃報は6月8日に発表

元関脇・長谷川勝敏(はせがわかつとし)さんが、2026年5月31日に膵臓がんのため81歳で逝去されました。
日本相撲協会が6月8日に正式発表しています。
「史上最強の関脇」「戦後最強の関脇」として今日まで語り継がれてきた名力士が、この世を去りました。
「史上最強の関脇」はどれほどすごかったのか

出典:「関脇・長谷川勝敏…静かに去った昭和の鉄人🔥」#大相撲 #相撲 #長谷川勝敏 #昭和の力士 #関脇 #魁傑 #金星 #日本相撲協会 #感動ストーリー #スポーツ伝説 – Nippon News
長谷川さんは1944年7月20日、北海道空知郡栗沢村(現・岩見沢市)生まれ。
1960年春場所に佐渡ヶ嶽部屋から初土俵を踏み、身長183cm・体重128kgの体格を活かした左四つ・寄り・掬い投げを武器に力士人生を歩みました。
最高位は東関脇。幕内在位は69場所、関脇在位は21場所にのぼります。
この「関脇21場所」という数字は、時津山と並んで戦後最多タイ水準。
大関昇進には届かなかったものの、三役在位は合計30場所にわたり、幕内通算成績は523勝502敗という堂々たる実績を残しています。
1976年、史上初の偉業を達成
1976年1月場所10日目、長谷川さんは幕内連続出場1000回という史上初の記録を達成しました。
これは、力士として怪我や病気なく土俵に立ち続けることの難しさを知れば、いかに気の遠くなるような記録かが分かります。
日刊スポーツなどの報道によれば、生涯戦績は678勝577敗15休(勝率.540)でした。
1972年春場所での初優勝と、兄弟弟子との決定戦

出典:元関脇長谷川 長谷川勝敏さんが死去 81歳 膵臓がんのため “史上最強の関脇”の異名も – NPB Deep Dive
長谷川さんの現役最大のハイライトは、1972年春場所での初優勝でしょう。
番付は前頭7枚目ながら優勝決定戦に進出し、対戦相手は同じ佐渡ヶ嶽部屋の兄弟弟子・魁傑。
BBMスポーツの記事によると、この一番は「ひらめきと勇気でもぎとった」と評される会心の相撲だったといいます。
関脇という地位でありながら、実力で優勝をつかみとった一番でした。
3度の「偶然の奇跡」が生んだ伝説

出典:優勝しても大関になれなかった男:長谷川勝敏、最強関脇の悲劇と栄光 – ラピッド・ロア
Wikipediaをはじめとする複数の資料に記録されている、長谷川さんの人生における「3度の危機」は特に有名です。
1つ目は幼少期。船の甲板で足を滑らせ海に落ちかけたとき、目の前の綱をつかんで一命を取り留めました。
2つ目は1963年のフグ中毒事件。その日たまたま腹の具合が悪く、ちゃんこを食べずに外出してうどんを食べていたため、部屋での集団中毒に巻き込まれませんでした。
3つ目は1966年の全日空羽田沖墜落事故。搭乗予定だった便を急遽キャンセルしたことで命拾いしています。
この便の事故では乗客133名全員が亡くなるという大惨事でした。
ちょっと意外ですよね。3度も死と隣り合わせになりながら生き延びた強運が、土俵での粘り強さにもつながっていたのかもしれません。
引退後は後進指導、2009年に相撲協会を定年退職
1976年夏場所で現役を引退した後、長谷川さんは年寄・秀ノ山(先代秀ノ山親方)を襲名し、佐渡ヶ嶽部屋で後進の指導にあたりました。
スポニチアネックスの報道によれば、2006年には日本相撲協会の理事に選出され、名古屋場所部長を1期2年務め、2009年に定年退職しています。
現役時代の「史上最強の関脇」という評価は、引退後も相撲ファンや業界関係者の間で長く語り継がれてきました。
大関という地位には届かなかったものの、関脇として21場所にわたり第一線で戦い続けた姿は、令和の相撲ファンにとっても知る価値のある偉業です。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
