松田治広さん死去 「ヤマシタ跳び」を生んだ体操界の伝説

体操の跳馬で世界に名を残した松田治広(まつだ・はるひろ)さんが、2026年6月19日に亡くなりました。87歳でした。
選手時代の名前は山下治広(やました・はるひろ)さん。
ピンとこない方も、「ヤマシタ跳び」という技の名前なら聞いたことがあるかもしれません。
そう、あの技を生み出した本人なんです。
日本人で初めて、自分の名前がそのまま体操の技名になった人物。それが松田治広さんでした。
1938年11月11日、愛媛県宇和島市生まれ。日本体育大学の名誉教授も務めました。
「ヤマシタ跳び」はどう生まれた? 名前が技になった日本人第一号

出典:【訃報】松田治広さん死去…🕊️ “ヤマシタ跳び”生んだ体操界のレジェンドが87歳で逝去🏅 – Japan trending news
ヤマシタ跳びが生まれたのは、日体大での練習中のことでした。
きっかけは、ある学生の跳び方。高く跳び上がって体を屈伸させながら跳馬を越える姿に、松田さんはヒントを得たといいます。
そこから「前転に屈伸での着地を組み込む」という発想にたどり着きました。
当時の跳馬は、直線的に跳び越すのが主流。
そんな中で、空中で体を「く」の字に折るこの技は、かなり独創的だったんです。
Wikipediaなどによると、松田さんは1961年に日本体育大学を卒業。
その翌年の1962年、プラハ世界体操競技選手権で跳馬の銀メダル、団体では金メダルを獲得しました。
ここから「ヤマシタ」の名が、世界に知られていきます。
ちなみに、日本人の名前が技名になった例としては、後の白井健三選手の「シライ」が有名ですよね。松田さんは、その先駆けともいえる存在でした。
東京五輪で金メダル 「新・山下跳び」で進化を見せた

松田さんのすごいところは、技を完成させて満足しなかった点にあります。
東京オリンピックを前に、こう読んでいたそうです。「外国勢が真似してくるはずだ」と。
そこで取り組んだのが、トランポリンを使った練習。
ひねりの感覚を身につけ、技をさらに進化させた「新・山下跳び」を開発しました。
そして迎えた1964年の東京五輪。跳馬と団体で、見事に2個の金メダルを勝ち取ります。
その後の活躍も並べてみると、こんな具合です。
- 1962年 プラハ世界選手権:跳馬・銀/団体・金
- 1964年 東京五輪:跳馬・金/団体・金
- 1966年 ドルトムント世界選手権:跳馬・金/団体・金
世界の頂点に立ち続けた選手だった、ということがよく分かります。
指導者としての功績と、意外と知られていない事実
現役を退いた後、松田さんは日本体育大学で指導者の道へ進みました。
後進の育成に力を注ぎ、体操界を支え続けます。
1976年のモントリオール五輪には女子コーチ兼総務として参加。1990年の北京アジア大会では、体操日本代表の監督を務めました。
選手としても指導者としても、第一線を歩み続けた人だったんです。
ここで、意外と知られていない事実をひとつ。
松田さんは2000年に国際体操殿堂入りを果たし、同じ年に出身地・宇和島市の名誉市民にも選ばれています。
さらに2017年の秋の叙勲では、瑞宝中綬章を受章しました。
技を残しただけでなく、その功績が国内外でしっかり評価された人物だったわけです。
跳馬の世界に革新をもたらし、自らの名を技として刻んだ松田治広さん。
その名前は、これからも「ヤマシタ跳び」として体操の歴史に残り続けます。
※本記事はWikipedia等の公開情報を基に作成しています。
