ヤクルトが背番号「50」を用意した理由

出典:『黒船』ボブ・ホーナー★来日4試合6本塁打の衝撃! – full jun
「50本打ってくれ」という期待を、背番号そのものに刻みました。
1987年、ヤクルトスワローズはアメリカから来た三塁手に背番号50を用意します。
ボブ・ホーナーさんです。
MLB球団との契約が不成立となり、年俸200万ドルの2年契約で来日したホーナーさんは、93試合で31本塁打・打率.327という成績を残しました。
「50」には届かなかったけれど、日本のプロ野球史に残る「旋風」を起こしたのは間違いありません。
2026年5月26日(現地時間)、そのホーナーさんが68歳で亡くなりました。アトランタ・ブレーブスが公式に発表しています。
来日4試合で6本塁打 神宮が熱狂した1987年

出典:日本のやって来た現役バリバリのメジャーリーガー ヤクルト ボブ・ホーナー全ホームラン – tsu 8107
来日してわずか4試合で、6本塁打。
「黒船来航」とも称されたホーナーさんの活躍は、神宮球場の観客動員を急増させる社会現象になりました。
打率が「上がった」外国人
ちょっと意外なのが、打率の変化です。
MLB通算打率は.277。それが日本では.327まで上昇しています。
日本の投手陣に苦しむ外国人選手が多い中、むしろ打率を約50ポイント上げた適応力。これが「ホーナー旋風」を支えた本質だったかもしれません。
Full-Countなどの国内メディアは「赤鬼」の愛称で親しまれた存在として報じています。
マイナー経験ゼロでメジャーへ 「先駆け」が貫いたキャリア

出典:赤鬼”ボブ・ホーナー氏が死去 68歳…ヤクルトで31HR「ホーナー旋風」、ブレーブス発表 – RisingSun Media
ホーナーさんのキャリアには、もう一つ異例の記録があります。
1978年のMLBドラフト全体1位指名後、マイナーリーグを一日も経験せずに直接メジャーデビュー。
CBS Sportsはその訃報で、ホーナーさんのキャリアを「being first(先駆けであること)で築かれた」と表現しています。
殿堂入り候補を退けたルーキーイヤー
デビュー年の1978年は89試合で打率.266・23本塁打・63打点を記録し、NLルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。
この選考で退けた相手が、後に野球殿堂入りを果たすオジー・スミスというのも、歴史的な場面です。
アリゾナ州立大学時代には大学通算58本(当時NCAA記録)を達成しており、カレッジベースボール殿堂にも名を連ねています。
ASU公式は訃報を「Sun Devil legend and College Baseball Hall of Famer(サンデビルの伝説、大学野球殿堂入り選手)」と表現しました。
1試合4本塁打も敗れた日と、引退後のヤクルト再登場

出典:【ボブ・ホーナー】日本人の誰もがメジャーなんて夢のまた夢だと思っていた時代に現役バリバリの大リーガーの力を見せてやると桁違いの実力で来日し興奮の渦に巻き込み少年たちを熱狂させた本物 – 女一匹野球道
4発打っても負けた試合
1986年7月6日のモントリオール・エクスポズ戦。この日、ホーナーさんは1試合4本塁打という快挙を達成しながら、チームは8-11で敗れています。
SABRの試合記録によると、MLB史上でも「4本打っても負けた試合」として特異な位置を占めており、ホーナーさんの個人としての破壊力とチーム事情のギャップを象徴する出来事として語り継がれています。
故障が奪った晩年、それでもヤクルトへ
意外と知られていないのが、引退後の動向です。
1987年のヤクルト移籍後、左肩の故障が深刻化。翌1988年のカージナルスでは60試合・3本塁打にとどまり現役を退きました。
しかし1992年、ホーナーさんはヤクルトの春季キャンプに臨時コーチとして招かれています。担当は長嶋一茂の打撃指導。旋風を起こした球団に、指導者として帰ってきた形でした。
MLB通算は1,020試合・218本塁打・打率.277。デイリースポーツや北海道新聞も訃報を伝え、日本でもその功績が改めて注目されています。
