車いすの91歳が読み上げた、五郎の遺言

出典:脚本家の倉本聰さん(91) 9月18日多臓器不全のため死去 代表作「北の国から」(2026年9月28日) – ANNnewsCH
2026年8月9日、北海道富良野市の富良野演劇工場。
車いす姿の倉本聰さんが、帽子とメガネ姿でステージに現れました。
サプライズ登場でした。
会場には、ドラマ「北の国から」の劇中音声が流れていました。
純の「電気のスイッチどこですかー」、五郎の「夜になったら眠るンです」。
倉本さん本人が「2002遺言」の五郎の遺言を朗読する場面もあったといいます。
開演から数分で、客席からすすり泣きが聞こえたそうです。
320席のチケットは、発売から1時間で完売していました。
このコンサートが、脚本家・倉本聰さんの最後の公の場になりました。
9月18日に死去、発表は10日後の9月28日

出典:「ニュース」「北の国から」脚本家の倉本聰さん死去 91歳 – 日本ニュース
倉本聰さんは2026年9月18日の夕方、富良野市の自宅で亡くなりました。
死因は多臓器不全、享年91です。
本名は山谷馨(やまや・かおる)、東京都出身でした。
生年月日は戸籍上1935年1月1日ですが、実際は1934年12月31日。数え年の慣習で届け出を遅らせたとされています。
葬儀は家族の意向で近親者のみで済ませました。
死去を公表したのは、倉本さんが理事長を務めていた倉本財団です。9月28日、公式サイトで発表しました。
財団はコメントで「倉本は、人と自然、家族、地域社会のあり方を見つめ、言葉と物語を通して多くの皆様に思いを届けてまいりました」と振り返っています。
故人の遺志により、「お別れの会」は11月3日、富良野演劇工場で開かれる予定です。
札幌、そして富良野へ 「北の国から」が生まれるまで

出典:ドラマ「北の国から」の脚本家・倉本聰さんが明かす制作秘話と“変わってほしくない”富良野への思い―再放送が照らす観光と環境の葛藤 – 北海道ニュースUHB
倉本さんは東京大学文学部美学科を卒業後、1959年にニッポン放送へ入社しました。
在職中から「倉本聰」のペンネームでテレビの脚本を書き、1963年に独立します。睡眠2時間で仕事を掛け持ちする生活は限界でした。
転機は1974年。NHK大河ドラマ「勝海舟」を、週刊誌記事をめぐるトラブルで途中降板し、同年6月に札幌へ移りました。
1977年には富良野市に移住します。
1981年10月、フジテレビで「北の国から」の放送が始まりました。翌82年3月まで全24話、平均視聴率14.8%、最終回は20%を超えました。
放送当初は視聴率が一時1桁まで落ち込んでいます。それでも視聴者からの手紙は1万通を超えました。
1983年から2002年にかけてスペシャル版が8作放送され、いずれも視聴率20%超え。シリーズは実に21年続きました。
富良野塾から点描画まで、演劇と自然に注いだ人生

倉本さんは1984年、私財を投じて「富良野塾」を開きました。受講料は無料、最高倍率は40倍で、2010年の閉塾までに375人を送り出しています。
2000年には公設民営の「富良野演劇工場」が開館。設計段階から関わり、プロデュースも手がけました。
2005年には自然保護のための「C・C・C富良野自然塾」も設立しています。
森の樹木を描く点描画は、晩年のライフワークでした。2018年夏には福島市で作品展を開いています。
俳優との交流も深く、高倉健さんとは「駅 STATION」「海へ」で、萩原健一さんとは「前略おふくろ様」で親交を結びました。1995年ごろには、マスコミに追い回されていた長渕剛さんを家族ごとかくまったこともあります。
音楽を手がけたさだまさしさんは追悼コメントで「せっかちで頑固で喧嘩っ早い倉本先生」「大恩人でした」とつづりました。8月9日のステージを振り返り、「あれが我々への格好良すぎる遺言でした」と結んでいます。
2024年11月に公開された映画「海の沈黙」が、原作・脚本を手がけた最後の作品になりました。
